長嶋茂雄が「ミスター」と呼ばれる理由は?誰が呼び始めた?

2025年6月3日。日本野球界のレジェンド、長嶋茂雄さんがご逝去されました。
野球ファンのみならず、多くの国民に愛された長嶋さん。突然の訃報に、日本中に悲しみが広がっています。
報道を受け、「ミスター」という言葉が多くのメディアで使われ、改めて彼の存在の大きさを実感した方も多いのではないでしょうか。
そもそもなぜ長嶋さんは「ミスター」と呼ばれていたのか気になりますよね。
今回は、長嶋茂雄さんが「ミスター」と呼ばれる理由、誰が呼び始めたのか、まとめました。
【なぜ】長嶋茂雄が「ミスター」と呼ばれるようになった理由
長嶋茂雄さんが「ミスター」と呼ばれる理由が気になりますよね。
由来は大きく2つあるようです。
ミスターの由来1:ミスタージャイアンツ
長嶋茂雄さんが「ミスター」と呼ばれる理由は、1つ目は「ミスタージャイアンツ」の略。
長嶋さんの彼のキャリアと人格そのものが“巨人軍(ジャイアンツ)そのもの”を体現していたからです。
ジャイアンツ一筋の生き様
長嶋さんは1958年にプロ入りしてから、1974年に引退するまでジャイアンツ一筋。
まさに「ミスター・ジャイアンツ」という呼び名がぴったりでした。
圧倒的な存在感
成績も一流、人気も桁違い。
長嶋さんがグラウンドに立つだけで球場の空気が変わる。
そんなスター性が「ミスタージャイアンツ」の名にふさわしかったのです。
ミスターの由来2:ミスタープロ野球
長嶋茂雄が「ミスター」と呼ばれる理由、2つ目は「ミスタープロ野球」の略。
ヤフーニュースでも「ミスタープロ野球」として紹介されていますよね。
【長嶋茂雄さんが死去 89歳】https://t.co/K05sUEJtUF
— Yahoo!ニュース (@YahooNewsTopics) June 2, 2025
昭和中期、当時の子どもたちに人気のあるものとして、「巨人・大鵬・卵焼き」というフレーズを聞いたことがある方もいるかと思います。
野球ではなく、巨人となっているのがポイントで、当時は巨人人気はすさまじく、巨人=プロ野球と見られていました。
「ミスタープロ野球」にふさわしい実績
長嶋茂雄さんは、立教大学で六大学野球のホームラン数の新記録を達成して、巨人に入団。
入団した1958年に本塁打と打点の2タイトルを獲得。
そして打率2位と、あわや三冠王という大記録を残しました。
しかも1年目は、29本塁打、37盗塁、打率.305。
1塁ベースを踏み忘れて幻となったホームランがあれば「新人でトリプルスリー」という、前代未聞の記録を達成していたかもしれないのです。
さらに翌年の天覧試合では、昭和天皇の御前でホームランを放ちました。
長嶋茂雄さんのプロ野球生活は17年。成績と主な獲得タイトルは次の通りです。
- プロ通算成績(1958~1974)
打率:.305(歴代19位)
本塁打:444本
打点:1,522
安打数:2,471本(史上初大卒選手で2,000安打達成) - 獲得タイトル
首位打者:6回
本塁打王:2回
打点王:5回
MVP:5回
ベストナイン:17年連続
新人から引退まで全17シーズン規定打席に達し、100安打以上を打ち、二ケタ本塁打。
というとてつもない数字を残しています。
記録にも、記憶にも残る偉大な選手だったんですね。
「ミスタープロ野球」にふさわしい人柄
長嶋茂雄さんが「ミスター」と呼ばれたのは、成績やスター性だけではありません。
そこには、誰からも愛された人柄がありました
ときに「天然」「おちゃめ」とも評されるその姿は、野球ファンはもちろん、普段スポーツを見ない人たちからも人気がありました。
そして、印象的なのは、「セコムしてますか?」のあのCM。35年間アンバサダーを務め、チャーミングな笑顔が輝いていました。
【訃報】セコム広報です。3日、長嶋茂雄さんがご逝去されました。享年89歳でした。
— セコム (@SECOM_jp) June 3, 2025
長嶋さんには当社のアンバサダーとして1990年より35年にわたり多大なるご尽力をいただきました。
長嶋さんのご功績に深く感謝するとともに、謹んでご冥福をお祈り申し上げます。 pic.twitter.com/UiXrxPB4bI
近年では、大谷翔平選手と共演し話題になりましたよね。
大谷選手も、突然の訃報にメッセージを寄せています。
記録にも、記憶にも残る偉大な選手だったのはもちろん、明るく誰からも愛される人柄だったからこそ「ミスター」と呼ばれて愛されていたんですよね。
長嶋茂雄を「ミスター」と誰が呼び始めた?
長い間「ミスター」という愛称で親しまれていた長嶋茂雄さん。
誰が最初に「ミスター」と呼び始めたのか気になりますよね。
誰が呼び始めた?
長嶋茂雄を最初に、「ミスター・ジャイアンツ」という呼んだ人物ははっきりしていません。
一説には、当時のスポーツ紙の記者や野球解説者(関根潤三さんなど)が自然と呼び始めたとも言われています。
呼び始められた時期は不明ですが、1964年には『ミスタージャイアンツ』と冠の付く映画まで製作されているので、1964年当時にはある程度浸透していたと思われます。
つまり、「ミスター」はファンやメディアが自然に生み出し、広まった、敬意のニックネームなのです。
引退後も「ミスター」としてスポーツ界に貢献
現役を退いてからも、長嶋さんは「ミスタージャイアンツ」「ミスタープロ野球」であり続け、プロ野球界、そして日本のスポーツ界をけん引し続けました。
野球界から日本スポーツ界の顔へ
1992年、ジャイアンツの監督に再就任すると、「ミスター復帰」と大々的に報道され、ドラフトで松井秀喜さんを獲得。
1994年にはチームを日本一に導きました。
監督として、セリーグ優勝5回、日本一2回を獲得しています。
2004年アテネ五輪の野球日本代表監督に就任していたものの、脳梗塞で倒れ、指揮することは叶いませんでした。
現地に来ることはできませんでしたが、ベンチには背番号「3」の長嶋監督のユニフォームが掲げられ、多くの人の心に残る名シーンとなりました。
2013年には、松井秀喜さんとともに国民栄誉賞を受賞。
2021年の東京オリンピックでは、王貞治さん、松井秀喜さんとともに聖火ランナーとして登場し日本中を感動させました。
長嶋茂雄さんは、野球という枠を越え、日本のスポーツ界の顔として、輝き続けた存在でした。
まとめ
長嶋茂雄さんが「ミスタージャイアンツ」、「ミスタープロ野球」と呼ばれるようになったのは、単に野球が上手だったからではありません。
記録にも、記憶にも残る偉大な選手だったのはもちろん、明るく誰からも愛される人柄で、スポーツ界の顔として国民から広く愛されていました。
2025年、長嶋さんは静かに旅立たれましたが、その存在はこれからも、私たちの記憶に永遠に残り続けることでしょう。